「情報リテラシー」は“考える力”である——技術と社会をつなぐ本質的スキルとは

SNSやAIの急速な普及にともない、「情報をどう扱うか」が個人の生活にも社会全体にも大きな影響を与える時代になりました。

私たちは日々、膨大な情報にさらされ、何を信じ、何を選ぶかを無意識に問われています。そんな現代において必要とされるのが、「情報リテラシー」という力です。これは、目の前の情報に対して自分の頭で考え、責任を持って行動するための“現代の基礎教養”とも言えるのです。

本インタビューでは、大分県立芸術文化短期大学の野田佳邦先生に、「情報リテラシーとは何か?」という根本的な問いから、AI時代における新たな課題、そしてこれからの教育のあり方まで、深く掘り下げてお話をうかがいました。

情報リテラシーとは何か?——その定義と本質

ナレッジアート(以下KA): まず最初に、野田先生が考える「情報リテラシー」の定義について教えていただけますか?

野田氏:「これが正解」という明確な定義があるわけではなく、さまざまな人がいろいろな定義をしています。「情報リテラシー」以外にも、「ネットリテラシー」など、類似する言葉も多く存在しています。

私が授業でよく紹介しているのは、アメリカ図書館協会が1989年に出した定義です。それによると、「情報が必要な時に、それを効果的・効率的に探し出し、精査し、活用する力」とされています。この訳し方には多少の違いがあるかもしれませんが、要するに「自分にとって必要な情報を見極め、それを探し出し、評価し、活用する力」ですね。私はこの定義が、本質を突いた考え方だと思っています。

この定義の中には、「コンピューター」や「インターネット」といった言葉は出てきません。つまり、インターネットの普及前の定義であり、情報リテラシーとは特定の情報ツールを操作できる能力ではなく、もっと根本的に「考える力」や「判断する力」を含む広い概念だということです。これは学生にもよく伝えているポイントです。

KA:コンピューターやインターネットが普及する前から「情報リテラシー」という言葉があったことに驚いています。定義の中でも特に重要な部分はありますか?

野田氏:一番重要なのは、「効果的に活用する」という部分ですね。つまり、最短距離で最適な情報にアクセスできる力が問われます。今の時代、インターネットを使えば便利なことも多いですが、例えばネットで何時間も調べるより、信頼できる人に聞いた方が早い場合もあります。そうした選択肢を柔軟に持ち、行動できることも情報リテラシーの一つだと考えています。

また、私の専門にも関わる部分ですが、情報を「活用」する際にはモラルやルール、法律の理解も非常に重要です。著作権や他者の権利、あるいは最近ではフェイクニュースや詐欺など、現代社会における情報の取り扱いには多くの課題があります。私は特に、情報モラルや知的財産に関する教育に力を入れており、情報を活用する際の責任や、受け手としての判断力も含めて教えるようにしています。

つまり、社会全体を広く見る視点が必要です。学生はまだ社会に出る前の立場ですから、単なるツールの操作だけでなく、社会構造やビジネスの仕組みも含めて、広い視野で情報リテラシーを教えていくことが大切だと思っています。

KA:ありがとうございます。最近ではAIが流行っていて、多くの人がそれに触れていますよね。AIリテラシーのようなものが情報リテラシーに含まれるのか、また、他にどんな種類のリテラシーがあるのか教えてください。

野田氏:例えば、コンピューターを操作する能力のことを「コンピューターリテラシー」と呼びますが、これはツールを使いこなす力であり、私は情報リテラシーよりも狭い範囲の概念だと捉えています。つまり、情報リテラシーの中にコンピューターリテラシーが一部として含まれている、というイメージです。

AIリテラシーについても同じように、私はAIをテクノロジーの一つ、つまりツールの一種と考えているので、AIとの向き合い方という意味で、情報リテラシーの一部と見なせると思っています。人によって捉え方は異なるかもしれませんが、私は広い意味での情報リテラシーの中に、AIリテラシーも位置づけられると考えています。

「情報リテラシーを誰が教えるのか?」──教育の空白とその社会的影響

KA:情報リテラシーが不足していることによって起きている社会問題や、それに対する解決策があれば教えていただけますでしょうか?

野田氏:私が今すごく感じているのは、「情報リテラシーを誰が教えるのか?」という点です。教育を誰が担うのかという問題は、とても難しいところがあります。

本来であれば、家庭や学校で自然と身につけていくべきものなのかもしれませんが、現実にはそれも難しい状況があります。現在の学生世代の親世代は、インターネットやデジタルツールが普及する前に成長しているため、情報リテラシーを十分に学ぶ機会がなかった。そのため、子どもたちに正しく教えることが難しいという課題があります。

また、学校現場でも情報教育に対する理解や支援体制が十分に整っていないという指摘もあります。つまり、「誰が情報リテラシーを教えるのか」というのが、最も大きな問題だと感じています。

情報リテラシーが不足すると、いわゆる「デジタルディバイド」が起きます。これは情報を扱える人と扱えない人の間に格差が生じるということです。この格差は単に情報の扱い方だけでなく、経済的な格差にも直結します。そのため、すべての人に実践的な教育が必要だと思いますが、現状ではまだそこまで実現できていないと感じています。

KA:情報の扱い方が、経済的な格差にもつながるのは知りませんでした。情報があふれる社会だと、どのツールで情報を取り込むか決めるのも難しいように感じます。

野田氏:最近はAIの話題でも見られますが、「危ないから使うな」という風潮が一部にあります。新しいテクノロジーが登場すると、どうしてもそういった反応が出てきますが、それは逆に危険だと思っています。リスクがあるからといって完全にシャットアウトするのは、「考えることをやめる」のと同じこと。私はそうした姿勢は、情報リテラシーの観点が“身についていない”状態であると感じています。

何も考えずに無防備に使うのも問題ですが、「考えるのが嫌だからまったく使わない」というのも、本質的にはあまり変わらない。リテラシーとは、「いつ使うべきか、いつ使わないべきか、どう使っていくべきか」を判断する力なんです。まずはツールを知って、向き合うことが必要だと思います。

こういったことは、インターネットが登場した時も、SNSが普及した時も起きていました。でも、もう「使わない」という選択肢は現実的にありません。AIに関しても、同じことが言えると思います。今、距離を置きすぎると、かえって社会の変化に適応しづらくなる可能性があります。そこは強く伝えたいですね。

KA:自分自身、新しいAIやツールは積極的に使っていますが、それでも情報リテラシーが不足しているのではと感じています。「自分は情報リテラシーが足りていないかもしれない」と気づく判断基準のようなものがあれば、教えていただけますか?

野田氏:テストのようなものがあるわけではないので、判断基準は難しいですよね。ただ、「情報リテラシーが不足している人」という意味で「情報弱者」なんて言葉が使われることもあります。これは、裏側を想像できない、仕組みを理解していないということです。

たとえば、画面に出てきたものしか見えない。それによって詐欺にあってしまったり、被害にあったりするリスクがあります。また、ツールを使える人と使えない人では、効率や経済的利益にも大きな差が出てきます。

KA:先ほども経済格差についてのお話がありましたが、具体的に情報リテラシーの差が経済格差につながるのは、どのような場面でしょうか?

野田氏:例えば、一昔前、格安SIMがまだ少数派だった時代がありました。そのとき、ずっとキャリアを使っていた人と早くから格安SIMに乗り換えた人とでは、払ったお金に何十万円という差が出ることもあります。ちょっと自分で調べればできることなのに、窓口のサポート付きで高額を払っている人も多くいます。こうした身近なところにも、リテラシーの有無で経済的な差が生まれるんです。

あとは、デマに騙されるということもあります。うちの授業でも、デマ記事を出して「騙されたかどうか」を判断してもらう課題を出すんですが、やはり一定数は騙されます。これは、「これを見て」と提示すると、それしか見ない。背景や発信者、なぜこの記事が出ているのかまで考えられない。別のソースを見てみるという考えができるかどうか、そういった思考ができるかが、リテラシーのあるなしにつながると思います。

KA:実は私も格安SIMではなく、いまだに大手キャリアを使っています。

野田氏:そうなんですね。でも、それがダメということではありません。問題なのは、「よくわからないから選択肢が限定される」ということなんです。ご自身で納得して選ばれているのであれば、それはまったく問題ないことですし、キャリアにはキャリアのメリットもあります。

「よくわからないから、楽な方にしよう」という選択をすると、そこには見えない価格が含まれてくるわけです。それが経済的な差として表れてきます。

テクノロジー時代の新しい情報リテラシーとは

KA:今後、私たちが身につけるべき「新しい情報リテラシー」とは、どのようなものだとお考えでしょうか?

野田氏:正しい情報を見極めるリテラシーが求められると思います。特に、AIのような新しい技術が一年で大きく進化するような時代になってきていて、そうした新しいテクノロジーとどう向き合うかという、より包括的なリテラシーが必要になってきていると感じます。

すでにAIをはじめ、さまざまな技術が私たちの生活に深く入り込んでいます。そうしたものと向き合うためには、まず自分で使ってみて、その過程でどのような問題があるかを考えていくことが大事だと思います。

また、テクノロジーの進化に合わせて、人間自身の資質も進化させなければならないのではないか、と最近感じています。つまり、単なる知識だけではなく、物事を深く考えて他者と対話しながら学ぶような教育が求められていると思います。

加えて、世代や環境によってリテラシーの有無や、テクノロジーに対する捉え方、理解の仕方も大きく異なります。ですので、画一的な教育ではなく、一人ひとり、あるいは属性ごとの支援が必要になってくると考えています。

KA:たしかに、現時点でも情報リテラシーは人によってさまざまなので、全員に同じように教えるのは難しそうです。情報リテラシーの中でも、特に身に着けておくべきものはありますか?

野田氏:今、私自身が特に注目しているのは「コンテンツリテラシー」の重要性です。情報リテラシーというと範囲が広くていろいろありますが、デジタルコンテンツが当たり前になった現代では、それを批判的に理解し、活用する力、さらには目的に応じて自分で制作・発信する力がとても大事です。

私の研究室では、学生たちが学んだことを自分たちの言葉で他者に伝えるために、アニメーションやミュージックビデオを制作しています。自分の手でコンテンツを作ることによって、受け身の学びから主体的な学びへと深まり、それを通じて社会とのつながりも生まれ、リテラシーが育まれると考えています。

つまり、学んで終わるのではなく、誰かに伝えるために「作る」という行為そのものが、新たなリテラシーのあり方だと思っていますし、そうした取り組みをこれからも続けていきたいと考えています。

KA:ありがとうございます。コンテンツの中でも、たとえば「情報商材」について、いいものはどんどん活用すればいいと思っていますし、逆に悪いものはダメだと私は考えています。

ただ、今の日本では「情報=悪いもの」と捉えるような偏見が強い気がしています。今後私たちが生きていく上で、そうした偏見はなくしていくべきなのか、それとも持ったままでもいいのか…、先生のお考えをお聞かせいただけますか?

野田氏: 「情報商材」という言葉には非常に幅広いものが含まれますが、高額で根拠が不透明なノウハウ商材については問題のあるものも多く、私はそうしたものに批判的な立場です。 ビジネスを学ぶなら、自分で小さく実践して検証する方が学びになりますし、信頼できる書籍や公開講座、無料でアクセスできる教育動画など、質の高い教材はほかにいくらでもあります。

一方で、学校ではカバーしにくい領域を補完してくれる良質なオンライン教材も存在します。大切なのは、発信者や根拠を吟味し、過大な期待を抱かずに活用するという姿勢ではないでしょうか。

たとえば学校で習っている内容がうまく理解できなかったときに、YouTubeなどで関連動画を見て理解が深まるというのはよくある話です。

YouTubeのように無償でアクセスできる情報もたくさんありますし、学校に通えない事情がある人にとっても、そうした学びのツールがあるのはとても良いことです。学びの選択肢が広がっているという意味では、そうした多様な情報源の存在自体はポジティブに捉えています。

KA: もう一点、「情報を吸収する力」と同時に、「情報から距離を置く力」のバランスも重要ではないかと思っているのですが、そうしたバランスを今後どのように身につけていくべきか、先生のご見解をお聞かせください。

野田氏:「距離を置く」というのが、間違った情報を取り入れないようにするという意味であれば、それはつまり、情報を判断する力のことだと思います。

そしてその判断力は、情報と実際に向き合っていないと身につかないんですよね。複数の情報を比較する癖があるかどうか、それが大切です。

「距離を置く」というより、「見極める力を持つ」ということになるかもしれません。情報を鵜呑みにせず、常に疑って比較する。たとえば、同じトピックについて異なる媒体がどう報じているかを比較したり、同じ人が過去に言っていたことと現在の発言を比べてみたりするなど、いろんな見方があると思います。

情報に触れずにその力を身につけるのは難しく、完全にシャットアウトするというわけにはいきません。そういう時代ではないので、やはり自分で慣れていく、訓練していく必要があると思います。

日常に根ざした情報リテラシーの育て方

KA:情報リテラシーを高めるために、日常生活の中で意識できることや、簡単に始められる習慣があれば教えていただけますでしょうか?

野田氏:ただ流れてきた情報をそのまま摂取して終わりにするのではなく、ツールを使って情報を比較したり、判断力を身につけたりすることが大事です。わからないことは調べてみる、気になったことは人に聞いてみる。そういったごく当たり前の行動が、実はすごく大切なんだと思います。

情報の表面だけを見ずに、「これはどこから来たのか」「誰が発信しているのか」「なぜこういう表現になっているのか」といった背景を考える習慣を持つことが重要だと思います。

また、その背景を考える力は、社会に出ていない若い人にはなかなか難しい部分もあるので、教育現場ではビジネスや社会の構造など、裏側の仕組みについて教えることが今すごく求められていると感じます。

KA:社会人経験のある教員と、そうでない教員では教えられることも違いそうです。

野田氏:私個人の意見ですが、もっと社会人が教育現場に関わる機会があってもいいのではないかと思っているんです。例えば、私の専門にも関わりますが、「海賊版コンテンツ」ってありますよね。アニメや映画や音楽などが無断でアップロードされているものです。デジタルネイティブの世代が、その問題点をあまり理解せずに、カジュアルに接してしまっている現状があります。

もちろんルールとしてNGだとか、モラル的にどうかという話もありますが、なぜそれがいけないのかという理由は、「どうやってビジネスが成り立っているのか」を知らないと想像できないと思うんです。特に小学生や中学生には難しい。

だからこそ、デジタルコンテンツ業界の仕組みなど、社会の仕組みをわかりやすく教える存在が必要だと感じています。ただリンクを開けばアクセスできてしまう世界だからこそ、その裏側に目を向ける癖をつける。それを知らない世代には、大人がしっかり教えていかなければならないと思っています。

また繰り返しになりますが、ツールは実際に使ってみないと学べません。AIなど新しい技術も、興味を持ったら試してみて、周囲と話しながら使っていく。使うメリットの方が圧倒的に大きいと思っています。

もちろんリスクもありますが、そのリスクを考えるためにも、まずは「知る」ことが必要です。実際に使ってみないと見えてこないこともありますし、そういう姿勢が情報リテラシーを育てる第一歩になるのではないでしょうか。

KA:デジタルコンテンツに関連する話なのですが、「興味のない分野」って、たとえわからなくても人ってあまり自発的に調べようとしないと思います。

そうしたことが原因で、情報リテラシーが不足している部分もあると感じるのですが、興味のない分野にも少し好奇心を持ちながら情報リテラシーを高めていく方法があれば、ぜひ教えていただけないでしょうか?

野田氏:最初にお話ししたように、情報リテラシーというのは「目的があって、そのために必要な情報をどう得るか」ということだと思います。ですので、そもそも目的がなければ、無理にすべての出来事を把握する必要はないんじゃないかと私は思っています。

ただ、今まで興味がなかったけれど、急にその分野について調べなければならなくなったときに、どれだけ情報をうまく集められるかは重要です。

そのときに、効率よく、質の高い情報を入手して、自分なりに再構成できる能力が情報リテラシーだと考えています。ですから、「知らないことまで全部知ろう」というのとは、少し違う話かもしれません。

KA:いわゆる「必要なものだけ取り入れていけばいい」という考え方ですかね。

野田氏:そうですね。自分の目的や目標を達成するために、必要な情報をいかに早く、安く、質の高い状態で手に入れるか、ということです。ツールもどんどん進化していますし、AIもそのひとつです。情報があふれる時代だからこそ、こうしたところで差が出ると思います。

今は自分の専門分野じゃなくても、YouTubeなどを通じて大学レベルの授業内容にもアクセスできる時代です。さらにAIが簡単にその要約までしてくれます。「ここに向かっていきたい」と目的が定まったときに、それに向けて必要な情報を見つけて、自分の力として身につけられる力。つまり情報リテラシーが高い人は、たとえ分野が変わっても様々なことに対応できる人だと思います。