「法律は守らなければならないルールだ」多くの人がそう考えるでしょう。しかし、その中でも刑事法は特別な存在です。なぜなら、違反すれば最悪の場合、死刑という重い制裁が科されるからです。
刑事法学は、犯罪と刑罰、そして刑事手続きを研究する学問です。一見難解に思えるかもしれませんが、実は私たちの日常生活に密接な関わりがあります。例えば、ストーカー被害や危険運転の通報など、刑事手続き、すなわち警察への相談が重要になる場面は少なくないからです。
この記事では、刑事法学の基礎知識から日本の刑事法の特徴、さらにはAI技術の発展による影響まで、北九州市立大学の水野陽一准教授に伺いました。

水野 陽一
北九州市立大学法学部 准教授
【biography】
広島大学大学院社会科学研究科博士課程後期単位取得退学 博士(法学)。主要業績として、『公正な裁判原則の研究』(成文堂、2019年)。近年では、無罪が確定した場合に警察が保有するDNA型情報の廃棄が日本で初めて命じられた裁判(名古屋高裁令和6年8月30日判決)にも関わる。
刑事法学の基礎知識と日本の刑事法の特徴について
ナレッジアード(以下KA): では、最初の質問として、刑事法学とはどのような学問なのか教えていただけますか?
水野氏:そもそも、法律はさまざまなルールの中でも、日本国内で最も守らなければならないルールと位置づけられます。その中でも刑事法は、特に重要な法律といえるでしょう。
刑事法に違反した場合、最悪の場合は死刑という重い制裁が課されることがあります。また、死刑に至らなくても、懲役刑(2025年6月から拘禁刑と呼ばれる)や罰金刑といった刑事的制裁が科されます。このように、刑事法は日本国内で最も厳格に守られるべき法律といえるでしょう。また、刑事法には主に2つの法律が含まれます。
- 1つ目は刑法で犯罪とは何か、犯罪を犯した人にどのような刑罰を科すべきかを研究する学問です。
- 2つ目は刑事訴訟法で、犯罪が本当に行われたのかを明らかにするための手続きや、警察の捜査、検察の起訴、裁判所での裁判といった一連の流れを扱います。刑事訴訟法学は、これらの刑事手続きや刑事裁判がどのように行われるべきかを研究する学問です。
KA: 刑事法学が「最も守られるべき法律」とされる理由について教えてください。他の法律と比べて、守らなければならない基準があるのでしょうか?
水野氏: 刑事法が最も守られるべきとされる理由は、違反した場合の制裁の重さにあります。
例えば、民法上の契約違反では、債務不履行が発生し、損害賠償が求められる程度です。しかし、刑法が扱う犯罪、例えば殺人罪を犯した場合、最悪の場合は死刑が科されます。死刑に至らなくても、殺人罪では最低でも15年以上の懲役刑が科されるのが一般的です。
また、民法で定められたルールは、当事者間で解決できる場合、国が介入しないことが多いです。一方で、刑法が定める犯罪行為は、当事者間で解決できたとしても、国が介入し、制裁を科します。
例えば、殺人事件では、遺族が加害者から多額の賠償金を受け取ったとしても、国は殺人をなかったことにはしません。このように、刑法が定めるルールは、国が強制的に守らせる性質を持っています。
KA: では、他国と比較した場合、日本の刑事法にはどのような特徴があるのでしょうか。他国と比較した場合、厳重に取り締まられているのでしょうか?
水野氏: 日本の刑事法は、国際水準と比較して極端に重すぎたり軽すぎたりすることはありません。ただし、重い犯罪に対しては厳しい方だといえます。その理由の1つは、死刑制度が存続していることです。死刑を廃止している国が多い中で、日本では死刑が維持されており、廃止の議論もほとんど進んでいません。
また、懲役刑の期間も長い傾向にあります。さらに、アメリカのように司法取引(罪を認めることで刑罰が軽減される制度)がほとんど導入されていないため、犯罪を犯した場合には、きちんと償う必要があります。このように、日本の刑事法は、犯罪に対して非常に重い刑罰を課す傾向があるといえます。
刑事法学はどのように日常生活に関わってくるのか
KA:刑事法学の概要を教えていただいたところで、刑事法学が私たちの日常生活に、どのように関わってくるのかも教えてください。
水野氏:まず、誰もが警察の捜査対象になる可能性があります。また、事件が起きた現場周辺の住民は、関係者として捜査対象になる可能性があります。例えば、近所で殺人事件が発生した場合、近隣住民という理由だけで容疑者(法律用語で正確には被疑者と言います)として考えられる可能性があります。
警察が自宅に来て捜査協力を求められたり、逮捕される場面に遭遇した際に、自分にどのような権利があるのか、警察に対して何ができて何をする必要がないのか、否認する権利があるのか、弁護士を依頼できるのかなど、万が一捜査対象になった時の対処法を知っておくことは重要です。そういった意味でも、刑事法学の知識は役に立ちます。
そもそも、警察は基本的に市民を守る存在です。しかし、法学部の学生でもない限り、一般の方は警察へ相談することを躊躇する傾向にあります。そこで警察では、「犯罪に巻き込まれる可能性がある場合」、警察への相談を推奨しています。
具体例として、ストーカー被害の相談があります。元恋人から日常的に付きまとわれる、大量のメールや電話、LINEで脅されるなどの相談を受けることがあります。ストーカー規制法により、警察では警告の発令、接近禁止命令の発出、違反者の逮捕など、適切な対応が可能です。
また、あおり運転の場合も警察では重点的な取り締まりを行っています。多くの人は110番通報をためらいますが、警察は危険な運転を「絶対にしてはいけない行為」として重点的に取り締まっています。相手と直接やり取りするのは危険なので、警察に通報することが推奨されます。
このように、刑事法学での学びが、自分を守る上での効果的な手段の1つになりえるといえます。
KA:なるほど、事件などに巻き込まれた場合、警察への相談を躊躇しないほうがよさそうですね。警察官の刑事法学としての知識はどの程度あり、どの程度刑事法学に関連しているのか教えていただけますか?
水野氏:警察官は採用後に警察学校で刑法と刑事訴訟法を中心とした刑事法学を学びます。上級職の警察官は刑事法学をよく理解していますが、若手警察官の中には更なる学習が必要な場合もあります。
例えば、110番通報や犯罪相談を受けた際に、ストーカー事案として対処すべき案件を認識できない場合や、まだ警察が介入する段階ではないと誤った判断をする警察官も少数ながら存在します。
また、逮捕が不適切な事案でも、正義感から逮捕してしまうような事例も実際にありました。警察官全員が刑事法学を十分に理解しているわけではなく、現場で活動する警察官にこそ更なる学習が必要な場合があります。
KA:警察の知識やスキルのレベルによって、逮捕権限は変わってくるのでしょうか。
水野氏:本来、逮捕には裁判所の許可である逮捕状が必要です。ただし、現行犯逮捕は目の前で犯罪が発生した場合や犯罪直後の場合に、現場の警察官の判断で裁判所の許可なしに逮捕できる制度です。
現行犯逮捕には明確な要件や条件がありますが、刑事法学の知識が十分でない警察官が、本来現行犯逮捕をすべきでない場面で逮捕してしまうケースが存在します。このようなトラブルは珍しくありません。
刑事法学における課題点と改善策について
KA:以上の内容を踏まえた上で、刑事法学における課題点や、課題点に対する解決策があれば教えていただきたいです。
水野氏:理論的にあるべき姿と実際の警察実務や裁判の運用には乖離が存在します。警察は市民を守るための組織であり、逮捕する相手、捜索・差し押さえの対象となる人物も市民です。捜査対象者に対して行き過ぎた捜査は避けるべきですが、警察官の正義感が空回りして、法的に不適切な捜査が行われることがあり、冤罪につながる場合もあります。
裁判所では、被告人を有罪とするためには「合理的な疑いを超える程度に確実な証明」が必要で、「疑わしきは被告人の利益に」という原則を守らなければなりません。しかし、日本の裁判の有罪率は99.9%であり、被告人が無罪である可能性がほとんど考慮されていない状況です。裁判が始まれば99.9%が有罪になる現状には問題があります。
KA:改善策はないのでしょうか。
水野氏:改善の可能性はあります。最近話題になった袴田事件は、警察の捜査の問題点と裁判所の有罪・無罪の基準に関する問題が最悪の形で表れた事例です。
- 袴田事件とは、日本の冤罪事件として広く知られ、長期にわたる法廷闘争の末、2024年9月に無罪判決が確定した事件。
袴田事件の教訓を活かすためには、警察と検察は捜査対象者が無罪である可能性を常に考慮すべきです。また、裁判所も警察と検察を過度に信用せず、裁判官は裁判員と共に、被告人が無罪である可能性を真摯に検討する必要があります。
判断の誤りを恐れず、「疑わしきは被告人の利益に」という刑事訴訟の原則に従って、必要な場合には無罪判決を出すべきです。刑事法学の研究成果から得られた知見を実務に反映させることで、袴田事件のような冤罪は防げたはずです。課題点に対する改善策としては、理論的な知見を実務に確実に反映させることが重要だと考えます。
刑事法学の未来展望 AIの影響と新たな捜査手法について
KA:では、刑事法の今後の展望について教えていただけますか。例えば、AI技術の発展による刑事法への影響などをお聞かせください。
水野氏:AI関連では、防犯カメラのリレー捜査が注目されています。防犯カメラの映像をAIで解析し、映っている人物の顔画像から「顔特徴量データ」を抽出して、データベースに登録します。AIがデータベースを基に別の映像から同一人物を探し出し、容疑者の行動を追跡することができます。
この捜査手法は画期的で便利ですが、課題もあります。防犯カメラには捜査対象者以外の一般市民も映っており、捜査対象外の人々の顔特徴量データや個人情報の適切な処理や廃棄について明確な規定がありません。AI捜査は対象範囲が広がりやすく、警察が一般市民を監視することも技術的には可能です。したがって、刑事法学の観点から適切な法律やルール作りを検討する必要があります。
また、「トクリュウ」(匿名・流動型犯罪グループ)と呼ばれる闇バイトによる犯罪が問題になっています。SNSを通じて集められた関係のない人々が強盗などの犯罪を行う事例が、特に関東圏などで報告されています。
警察はこの問題に対処するため、仮装身分捜査(身分秘匿捜査)という手法の導入を検討、一部既に実施しています。警察官が身分を隠して闇バイトグループに潜入する手法です。警察は公的な身分証を偽造して本名も偽り、グループに潜入して摘発を試みようとしています。
しかし、一般市民が行えば犯罪となる身分証偽造を警察に簡単に認めてよいのかという問題があります。仮に認める場合でも、裁判所による事前審査など、適切な条件設定が必要です。刑事法学の理論に基づいた法整備が求められています。
刑事法学を学ぼうとする人へのアドバイス
KA:では最後に、この記事を読んでいただいた読者の中には、刑事法学を学んでみようと考える方もいらっしゃると思います。そのような方々に対するアドバイスをお願いします。
水野氏:まず、社会全体のさまざまな事象に関心を持つことが最も重要だといえるでしょう。法律は世の中で起こったトラブルを解決するためのツールという側面があります。法律の勉強を始める際に、世の中の出来事やニュースに関心がなく、身近な友人の周辺以外の問題に興味がない状態では、学習の意義を見出せません。
例えば、匿名・流動型犯罪グループによる闇バイトの強盗事件が発生している現状を知らなければ、問題の本質を理解することは困難です。
犯罪は社会の世相を反映しています。最近では経済的な理由から日本人が強盗に及んだり、海外の特殊詐欺グループに加わったりする事例があります。日本における格差の拡大が背景にある犯罪も発生しています。
このような社会情勢と犯罪の関係性を理解し、対策を考える際には、個別の事象だけでなく、社会全体を広く見渡す視点が必要になります。効果的な解決策を見出すためには、社会全体に対する幅広い関心と理解が不可欠です。
自分の身の回りの事象だけでなく、社会全体で起きている問題に目を向け、問題解決の方法を考える広い視野を持つことが重要になるでしょう。