「正しい情報を見極める」は可能か?──複雑化するメディア環境とメディアリテラシー

情報があふれ、何を信じるべきか分からない──そんな混迷の時代に求められるスキルとして、メディアリテラシーが注目されています。

しかし、メディアリテラシーを身につけるとはどういうことでしょうか。そしてこれは複雑化する情報社会を生き抜く処方箋になるのでしょうか。

今回は、東洋英和女学院大学の小寺敦之先生に、メディアリテラシーとは何か、私たちは何に注意し、どのように情報に向き合うべきかについてお話を伺いました。

メディアリテラシーの定義――“誰がどう教えるか”が生み出す多様性

ナレッジアート(以下KA)まず初めに、メディアリテラシーという言葉がどのように定義されているのか、教えていただけますでしょうか?

小寺氏:メディアリテラシーというのは、実のところ共通認識があるわけではなく、研究者や教育者によって、あるいはそこで何を教えるのかによって、定義や意味合いが異なります。

たとえば、私自身は、心理学的なメディアコミュニケーション研究の立場からメディアリテラシーを教えており、「私たちの知識はメディアからの情報によって作られているということを理解しましょう」という主旨の授業を展開しています。これがジェンダーの研究者であれば、メディア内のジェンダー表現を読み解くといったアプローチを中心に据えるかもしれません。

KA:そうなのですね。その中でも、オーソドックスな定義もあるのでしょうか?

小寺氏:定義ではありませんが、メディアリテラシーがどのような文脈で使われているかをいくつか挙げてみましょう。

1つ目は、情報機器の操作能力です。大学には「情報リテラシー」や「コンピューターリテラシー」という名前で、基本的なコンピュータ操作を教えるところがあります。もともと「リテラシー」は文字の読み書き能力を意味する言葉ですから、これを拡張して、情報機器の操作能力とする流れですね。

2つ目は、主にマスメディアのメッセージやコンテンツを批判的に読み解く力です。今回のインタビューで中心になるのはこの流れに類するものなのだろうと思います。私が大学で教えているのもこれに近いもので、メディアのコンテンツを「受ける」私たちが備えるべき批判的読解力の向上を目指すものです。

3つ目は、発信能力あるいは表現力です。今のメディアリテラシー研究では、この「自分でメディアを作る」という点に注目している人が多くいます。メディアの送り手となる経験を通して、メディアと社会の関係を実践的に、能動的に学ぼうという取り組みですね。

KA:ありがとうございます。批判的読解力という話が出ましたが、日本人は批判的読解力が低いということでしょうか?

小寺氏:日本人が特別に高い、あるいは低いということはないと思います。

そもそも、批判的読解力を主としたメディアリテラシー教育は、ヨーロッパやカナダなどで始まったものです。これらの国ではメディアから受け取る情報を批判的に読むというプログラムが公教育で導入されてきました。これらの取り組みは、メディア社会、特にテレビを中心としたマスメディアに向き合う社会において「必要だから」始まったものですので、メディアを読み解くスキルを身につけようという意識は国を問わず共通だと思います。

ただ、日本の場合はやや複雑で、コンピュータをうまく使うという操作能力に、欧米由来の「批判的読解力」の概念が加わるという形でメディアリテラシーという言葉が広がってきました。いろいろなスキルがメディアリテラシーという言葉に含まれるようになったわけです。

そういった背景もあり、「メディアリテラシー」という言葉を使う際には、それがどういう意味で使われているのかをしっかり確認しないと混乱するという状況が生まれているということです。人によって定義や意味づけが違う以上、それを確認してから議論しないとかみ合わないかもしれませんね。

「信じられるメディアがない時代」のメディアリテラシーとは?

KA:続いて、今の社会で一般の方が身につけるべき批判的読解力としてのメディアリテラシーについて教えていただけますか?

小寺氏:その質問は、現在の複雑な情報環境への対応策をお尋ねになっているのだと思います。まず、今の時代にメディアリテラシーが求められている背景を整理しましょう。

ひとつは、情報環境が非常に複雑になってきたという点が挙げられます。

人が情報を得たり、ニュースを受け取るという行為自体は昔からあったものですが、昔と今ではいくつかの違いがあります。たとえば、フィクションとノンフィクションの区別が難しくなっているということ。ディープフェイクのように、明らかに作られた情報と事実の境界が曖昧になっていて、何が本当か分からない状況になっているという点が挙げられます。

もうひとつは、個人とマスメディアの発信の境界がなくなってきていることです。Yahoo!ニュースのようなプラットフォームでは、新聞社の記事と個人の投稿が同列に並んでいて、パッと見ただけでは区別がつかない。このように、情報の出所が区別されることなく消費されるという状況が生み出されています。

そして、情報の発信や受容の原理が「読まれればお金になる」仕組みに変わってきたこと。インターネットではクリック数や再生数が重要視されるため、情報環境が、センセーショナルな情報、あるいは盛り上がりやすい情報に染まっていく傾向があります。

このような新たな環境の中で、信じられるメディアが分からなくなっているというのがメディアリテラシーへの期待を生んでいるのでしょう。情報社会を生き抜くためにメディアリテラシーを身につけることが必要だというわけです。

KA:たしかに、インターネットが普及した現在、「メディア」の種類も発信者も昔とは大きな違いがありますね。

小寺氏:かつては「新聞を読んでいれば大丈夫」といった一種の神話がありました。盲目的という言い方が正しいのかもしれません。ただ、それでもかつては「信じることができるメディア」が明確だったという点は今と大きく違います。

今は、マスコミ批判がインターネット上で溢れ、個人や小規模なネットメディアからの対抗的な情報も多くなってきた。その結果、何も信じられない、何を信じたらいいのか分からないという状況になっているのでしょう。

それに輪をかけて、「メディアを疑う」という言葉が誤って使用されてしまっていることも心配です。

これはメディアリテラシー教育が行き届かなかったことに原因があると言えるのかもしれません。たとえば、メディアリテラシーに関わる文脈では「メディアを疑う」という言葉がよく使われます。これは本来は「批判的に読み解く」という意味なのですが、それが「メディアは嘘をついているのだ」という誤解・曲解を生んだ可能性があります。結果として「メディアリテラシーを身につけましょう」という運動自体が「メディアを信用できなくする構造」を作ってしまったことになります。

こういった要因が重なって、改めて「メディアリテラシーを身につけることで正しい情報を見極める」という要望が生まれているのではないでしょうか。

KA:そうした背景を踏まえたうえで、「基本スキル」としてはどんなものがあるのでしょうか?

小寺氏:結論から言うと、「正しい情報を見極める処方箋」は存在しません。メディアリテラシーを身につけることで解決するというのは、スローガンとしての聞こえはいいですが、ほとんど実効的な意味を持っていません。

たとえば、「メディアの情報を鵜呑みにしない」という言葉、よく使われますよね。でも「鵜呑みにしない」と言うなら、どうすればいいのか? インターネットもメディアです。SNSもメディアです。どこも鵜呑みにできないなら、情報をどこから得るのか?情報を得ないで私たちは社会で生きていけるのか。結局、「鵜呑みにしない」は何の解決策にもなっていないのです。

よく提唱されている「情報源を確認しましょう」とか「複数の情報を比較しましょう」といったチェックリスト方式にも問題があります。

私は正直、このチェックリスト方式はほとんど効果がないと思っています。なぜなら、大学生でも高校生でも、こうしたスキルは授業で何度も習って知っているにもかかわらず、実際にそれを丁寧にやっている人はほとんどいないからです。

さらに言えば、チェックリスト方式には「正しい情報と間違っている情報が存在する」という前提がありますよね。でも実際には、人によって何が正しいかの判断が異なる。たとえば、陰謀論を信じる人は、公的な情報なんて信用しません。そういう人に「公式情報を確認しましょう」と言っても、まったく意味がない。

最近では、現アメリカ大統領のように、気に入らないニュースを「フェイクニュース」と呼ぶような事例もあります。つまり、感情や立場で「正しい」「間違っている」とラベリングされることも多いわけです。

誰が、どんな思いで書いているのか? 情報の読み方の工夫

KA:では、私たちにできることはないのでしょうか?

小寺氏:残念ながら、現在の情報環境は、自助努力でどうにかなるレベルを超えてしまっていると思います。ニュースに関しては「個人が発信する情報をプラットフォームメディアから締め出すべきだ」といった意見もあるように、ハード面の対策が最も効果的かもしれません。

ただ、それが実現できていない以上、わずかな抵抗力にしかならないかもしれませんが、自分たちでできる「情報の読み方」を考えることが大事です。

たとえば、私が大学で教えているメディアリテラシーの授業では「ニュースの送り手も私たちと同じ人間であることを意識しましょう」ということを繰り返し強調します。

KA:「送り手も人間である」というのは、具体的にどういうことでしょうか?

小寺氏:小学校のときに学級新聞を作ったことはありますか? 自分で新聞を作った経験があると、情報をどう選んで、どう伝えるかというプロセスを理解できますよね。そのプロセスに登場するのは誰でもない「新聞を作っているわたし」です。

日本では、「新聞を読みなさい」という教育が長く行われてきて、新聞に対する信頼が非常に高い。でも、新聞記事だって、結局は人が書いているんです。神様が書いているわけではない。

たとえば、記事の中で「〜と強調した」「声を荒げた」「〜の見込みだ」というような表現が出てきますよね。これらは一見客観的に見えて、実は主観的な描写です。「言った」ではなく「強調した」です。「大きな声で言った」ではなく「荒げた」。「見込みだ」というのは未来の話です。事実を書いているわけではない。要は、記者の意図や感情、予測なんかが反映されて記事ができているわけです。

KA:なるほど、ニュースを読む際にも発信者の意図を読み取る必要があるのですね。

小寺氏:はい。私の授業では、他にもテレビニュースの短い映像を見て、そのシナリオを分析させたりします。たとえば「どのようなインタビューが挿入されているか」「どの場面が強調されているか」を見ると、ニュースが単に事実を伝えるものではなく、視聴者をある方向に導こうとしている物語であることが分かってくるのです。それは悪意があるという意味ではなく、人に何かを伝えるということは「主観」を通して行われるほかないのです。

同じニュースを複数のテレビ局で比較したり、朝日新聞と産経新聞で同じテーマの社説を読み比べると、主張が全く異なることも多い。それは、どちらが正しいかという話ではなく、情報の背後には必ず「それぞれの人間の思い」があるということです。「偏っている」というのは、自分が真ん中にいるという思い込みが生み出す言葉であり、相手から見ればあなたが「偏っている」となります。

だから私は、「ニュースの向こう側に誰がいるかを想像しながら読むこと」を一番伝えたいと思っています。複数チェックや公的情報の参照も大事ですが、それ以上に「誰が、どんな思いでこの情報を作ったのか」という「主観」を意識することで、そこに「情報」ではなく「人」がいることを理解する。それによって情報に「対等に」向き合う姿勢が育まれればいいなと思ってます。

KA:私も新聞を読み比べた経験があるので、とても納得しました。ただ、今後はAIがニュースを書くケースも増えてくると思います。その場合、AIを使う人間の意図や指示によって、内容が変わってくると思うのですが、それについてはどうお考えですか?

小寺氏:誰が書いたか明かさずに「AIが書いた記事」と「記者が書いた記事」を読ませたところ、AIの方が評価されたという実験結果が出たという海外の研究もありますので、今後「AIが書いた記事」が広がっていくことは間違いないでしょう。

ただし、AIはゼロから情報を生み出すことはできません。インプットがなければ動かず、その元ネタは結局、人間が作った情報です。つまり、AIの背後にもやはり「人間」がいるんですね。

新聞やマスメディアに対して、「偉い人が書いている」という先入観を持つ人も多いですが、学級新聞と同じで「人が作っている」という事実を忘れないことが重要です。それを意識することが、今できる最も身近な対策なのかなと思っています。

自分の意見がフィルターになる時代、“見る目”より大事なこと

KA: 「正確で正しい見方は存在しない」とはいえ、今の時代はフェイクニュースやデマが本当に多くて…。やっぱり、それに対する対策は必要だと思うんです。

そうした中で、個人としてどう情報と向き合えばいいのか、正しく見極め、騙されないための視点や工夫があれば教えていただけますか?

小寺氏:正直に言えば、絶対的な方法はないですね。

「見極める」という言葉が出ましたが、情報検索自体にもリスクがあるんですよ。特に「自分の意見を持つこと」が、逆に情報収集において良くない方向に働くことには注意したほうがいいです。

今のネットの検索アルゴリズムって、自分の趣味や関心に合わせて情報が返ってくる仕組みになっていますよね。だから、自分の意見を軸に検索し始めると、その意見に沿った情報ばかりが表示されるようになってしまう。これはフィルターバブルと呼ばれる現象で、気づかないうちに自分にとって心地よい情報だけに囲まれてしまうんです。

KA:たしかに、自分の興味のあることばかり出てきています。

小寺氏:だから、ネットで検索して「正しい情報」を集めようとしても、実はすごく偏ってしまう危険性がある。自分にとって正しい情報だけが集まってきてしまう。それが、今の情報環境の難しさですね。

ただ、唯一の救いとして言えるのは、情報があふれている今だからこそ、頑張れば「別の視点の情報」に触れる機会もあるということです。新聞社がたくさんあって、ニュース番組やウェブサイトがそれぞれ違うものを伝えている。これって、多様性があるからこそなんですよ。

もし「正しい新聞社」や「正しいニュース番組」「正しい個人」だけがあれば、他は全部いらないって話になりますよね。でも、それは危険な発想です。

「正しい」「間違っている」という基準で情報を分けてしまうのはとても危うい。そもそも「正しい」なんてものは存在しないかもしれない。たとえばウクライナとロシアの戦争でも、日本ではウクライナに寄り添う報道が圧倒的に多い。なぜ戦争が起きているかを知らなくても、ロシアは悪いという印象はできあがっている。私たちは、そういう情報環境の中にいるのです。そこでは「正しい」かどうかという判断も難しい。

事実はひとつかもしれないけれど、それを解釈する「真実」は人の数だけある。人によって捉え方が違うんです。その多様な真実をいかに拾い集めて、自分はどの視点で物事を考えるか。それを意識することが大切だと思います。

KA:多様性こそが、情報を偏らせないために必要なのですね。

小寺氏:はい、多様性が失われると、言論空間やニュースのあり方は一気に怖いものになってしまいます。ひとつの正義だけがまかり通る世界になる。

だから、自分と違う意見や気に入らない情報をバッシングするのは、将来的に自分の首を絞めることにもつながります。誰かの情報を「フェイクだ」と断定してしまえば、いずれ自分もそう言われる側になるかもしれない。

情報社会でも「多様性を確保すること」は大切です。そして、その多様性を受け入れられる環境を守ること。その中では「情報を見極める」よりも、「うまくサーフィンする」ように乗りこなしていく。今、私たちにできるのは、そういう姿勢じゃないかなと思います。

メディアリテラシーに正解はない、“人が作ったもの”と意識することから始めよう

KA:これから情報社会で生きていくうえで、理想の姿勢があれば教えてください。

小寺氏:「処方箋は存在しない」ということをまず受け入れるという姿勢でしょうか。これは、あきらめではなく、出発点です。

私たちは、これだけ多様な情報に囲まれて生活している。その中で「これは正しい」「これは間違っている」と判断するのは実際とても難しい。だから「正確に見抜こう」と気負いすぎないことが大切だと思います。

KA:なるほど、力を抜くというか、構えすぎないことが大事なんですね。

小寺氏:そうですね。そして繰り返しになりますが「情報は人が作っている」という視点を忘れないことです。どんなに正しそうに見える記事も、AIであっても、その背後には誰かの意図や目的がある。つまり、情報には必ず送り手の思いや立場があるんです。

それを意識するだけで、「この情報は誰が何を伝えようとしているのか?」と自然と問い直す姿勢が生まれます。これは、特別な知識やスキルがなくてもできる、ごく日常的なメディアリテラシーです。もっとも「誰が」というのがハッキリ見えてこない情報は、見るに値しない情報と言えるかもしれませんが。

KA:誰かが「作ったもの」だと意識するだけで、見え方が変わるような気がしてきました。

小寺氏:「鵜呑みにしない」「徹底的に疑う」と言ってそれで満足しちゃう、あるいは「見極める」と頑張って疲弊してしまうよりも、「これは誰が、どんな立場で言っているのかな?」と考えるクセをつける。それが、これからの時代を生きる私たちにとって、最も現実的で、持続可能な姿勢だと思います。